……これまで日本のバーガー発祥を称する店をいくつか巡ってきた。いずれが先か……は定かでないが、とにかくどの店にも共通して言えるのが米軍との関わりという一事である。泉麻人氏のコラムによれば(ページがなくなってしまった!)、六本木のハンバーガーインが最初に在った飯倉は、近くに駐留地があって……と確かそのようなことを書いていたように思う。仙台のほそやも某記事に「仙台は軍都でもあった」「終戦後、軍関係の施設が置かれたことがある」とあり、日比谷のニューワールドサービスはGHQに接収されたビルの中に在った。佐世保については最早言うまでなかろう。さてソノ佐世保の味を知ってしまった身としては「美味しいバーガーは基地のソバにアリ!」という単純な発想が湧いて湧いて仕方がない。それが安易なのか妥当なのか――コノ仮説の真否を確かめるべく、米軍キャンプの周辺を巡る企画を打ち立てたのがこのページ――題して"基地編"。
'06.8.16 キッチンかたおか updated国道16号沿い、米海軍横須賀基地のゲート前、裏手はドブ板通り――横須賀臭ふんぷんのロケーション。'68年オープン、この西暦は米軍的にはヴェトナム戦争のさ中、音楽的には……フムフム、大変に興味深い年である。何て言うか……とにかく空気が古い。この古さは演出ではない。演出では成し得ない。ラーメン博物館やら何やらのような、昭和○年代風美術ではないのだ。本気で年を経ている。ジュークボックスが通信になろうと、スロットマシンがコンピュータになろうと、依然変わらぬ古臭〜いニオイの中で息している――そんな店。まるで焼き鳥屋か立飲み屋みたいな安い板壁で周囲を囲い、照明と言えば超ロングなカウンター席の頭上に微かに灯る電球の薄明かりと、カウンター内側のビールメーカー各社ロゴマークのネオンサイン、そして巨大メニューボードの蛍光灯の光以外ほか無い、薄暗ーい店内。それらすべての光源を圧するが如く、オモテの光が強烈に差し込んではきているのだが、しかしその光さえ、店の奥に到達するまでの僅かの間にググッと老け込んでゆくかのようである。褪せている。褪せた味わいが充満している。夜な夜な米兵が集まって来るらしい。1ドル100円換算でドル表示もある。人気メニューはタコス、チリドックetc.
他のメニューに惹かれつつも、6種類(多分)の中からチーズバーガー\400を。コースターを大きくしたような木皿にレースペーパーを敷いての登場は、店のイメージからすれば意外。実に端正な見た目だ。「地元のパン屋さんに特注」しているというバンズには特有のクサミがある。表面何もなし、やわらかい。中は千切りレタス、生オニ、トマ、チー、パティ、バンズ(heel)。レタスとオニオンのサクサクが気持ちよい。マヨ、ケチャ、マスタードは卓上に。バーガーには一切調味料が加えられていない――やはりコレが真のアチラ流なのか。なのであっさりしている。が例によってそのままいただく。量は額相応に小ぶり(あるいは手ごろ)、米軍さんはコレ1個じゃ到底満足できまい。何と言うか……まとまった味とは思うのだが、ずいぶんと渋目のところで落ち着いている。なので所謂バーガー的イキオイには欠けるものがある。何かちょっと彩度が落ちているとでも言うか、そんな印象はコノ店の、そしてコノ街全体にも通じて言えることのように思う。
カウンターの中はお母さん二人。BGM――地元のFM局の番組を流していた。高い天井から吊り下がるファンの回る音か、オモテに向けて付けられた換気扇の回る音か、あるいは冷蔵庫のサーモの音か、はたまた天井に取り付けられた巨大な空調の音か(多分コイツだ)――ガランとした店内を埋め尽くして、一種独特の虚無感を漂わせていた。心の隙間とリンクしそうな、そんなお店。
2005.6.11 Y.Mこちらは市街からバスで10分ほどのところ、池上中学というバス停の目の前。なのでバス ストップ(←スペース入ります)。バスは案外な乗車率の高さ、しかもみなさん揃って池上中学で降りる。ずいぶんと利用客の多いバス停だなぁ……と思っていたら、近くに有名な菖蒲園があるそうで、そのお客さんでした(ちなみに市の花はハマユウ)。
さてバス停前のバーガーショップ、入ると中は真のお手製、ログハウス風。木のベンチ、木のテーブル、木のカウンター、そして鞍馬のように背の高い、木のカウンター席――みんな手造り!唯一天井のみが未処置、安い飲み屋か古本屋みたいでやや減点。入口と奥の窓を開け放って風通し良くした店内に、心地好い初夏の微風がそよとすり抜けてゆく。さらに壁の扇風機2台が首を振って、この日の暑さを(と言っても大したことなかったけど)和らげている。BGM――無音。だが奥には立派なDJブースがあり、夜にはブルースのライヴもやる。コロガシ(床置き用モニタースピーカー)が積んであり、柱にはなんとスピーカーが縄でくくりつけられている。店はバンダナ巻いてお店のオリジナルTシャツ着たお母さん一人。佐世保を思い出す。バーガー類18種、\400を超えるモノはない。トッピングも体系化されている。他にタコス、クレープ、チャーハン・丼モノまで。チーズバーガーは\290だが、自家製ミートソースを使ったBSバーガー\340にチーズ\30をトッピングして\370のBSチーズバーガーを。薄〜いコーラを飲みながら。
オモテに「浜田パン」というパン屋のパン箱が置いてあったが(創業明治27年、横須賀では有名なパン店)、ソコのモノであろう表面何もないバンズ。裏も"底"もよく焼かれており、サクサクッとして美味しい。中はトマ、BSソース、オニ、チー、パティ、レタス、バンズ(heel)。穏やかな味の自家製BSソースは特に強い主張も無いが、しかしもちろんレトルトなニオイなど一切しない。四角いパティはつなぎ使用の合挽きでハンバーグ味。レタスの折り畳み方が見事。別段強烈な押しも仕掛けもないバーガーだが、それでも最後の一口が妙に美味しかった。ハニービー同様、額相応・手ごろなサイズ。整った、あるいは日々作り慣れた印象を受ける。クレープ、フランクフルトなどとともに昼間は中学生のおやつに、そして夜はブルースの生演奏が似合うバーの酒のつまみにと、一日中それなりな数が出ているのに違いない。ぜひ中学生には安いからと言って某Mのバーガーなど食べないでもらいたいものだ。お母さんの愛情がたっぷりこもった手作りバーガーがあるのだから。
外人さんもやって来る。本気で日本語が話せないらしく、注文時片言すら出てこない(と言ってもメニュー自体すべて英語なワケなのだが……)。が、コレに応じるお母さんもまた英語は話せないらしい。すぐ目の前がバス停だけあって、4〜5分おきにプシュー……というバスの気配がするので、長居しても飽きることがない。
2005.6.12 Y.M本牧――鉄道が通っておらず(かつては市電があった)、その知名度のわりに公共交通機関はバスしかない陸の孤島またはちょっとした穴場スポット。桜木町駅から市営バス海づり桟橋行き――この行先からして何となくさみしい――で20分、バス停船員センター前のホント目の前。
元の組織はUNITED SEAMEN'S SERVICE――「55年以上にわたり船員と港に集う方々にサービスの提供をしている非営利団体です。当センターの全ての収益は、船員福祉、ポートサービス活動のために役立てられております」――そのUSSが運営する海員のためのレクリエーション施設 USS INTERNATIONAL SEAMEN'S CENTERの通称がシーメンスクラブかな?――「ニューヨークに本部を置き、世界各地にあるシーメンスクラブ。ピンボール、ビリヤードやダーツのある店内はアメリカそのもの」……ピンボール、ビリヤード、ダーツ、バーカウンター、テニスコート……と聞いてとてつもなくオシャレな空間を想像してはいけない。ノリとしては築云十年の国民宿舎1階ロビー+大浴場入り口のゲームコーナー。タイル壁に四方鏡で囲った柱が印象的な天井の高い殺風景な空間を、ココは玉突き場、コッチにピンボールとダーツ、ココはインターネット見放題……と、かなり無理矢理に場所を決めた感が。どう使って良いのかわからない……って感じで持て余し気味に置いてある隅っコのテーブルとか。照明は暗〜く落としてあり、バーカウンターとビリヤード台の灯りのみ煌々と、かつ渋〜い光を周囲の闇に放っている。トイレは昔の学校並み……そう、"施設"という言葉を念頭において考えた方が実物に近いと思う。ついでに言うと、確かに海の近くにはあるものの、この店の後ろには本牧ふ頭が大きく突き出ており、よって窓から港は一切見えない。まあ海員が陸(おか)を楽しむ場なのでしょうな。
とは言えそこはさすがに国際貿易港ヨコハマにある海員施設(そうそう、奥には外貨の両替所も)、そこはかとなく漂うグローバルなイキと香り。テーブルには臙脂(えんじ)色のクロスが掛かり、築云十年の室内の古び方と相俟ってグッと落ち着いたクラシカルな空気を醸している……コレまさに小学生の頃に親に連れて行ってもらったレストランの風情そのもの!メニューもステーキにフライにハンバーグに……とオーソドックスな洋食のオンパレード。しかもどれも美味しそ〜!一角に申し訳程度の小サラダバーもあり。
さてUSSチーズバーガー\850。付け合せはフレンチフライ。白ゴマふんだんの白バンズは裏バター、白レタ、甘い輪切りオニ、トマ、ピク、黄色いチー、ベーコン、パティ、下バンズ。バンズの白ゴマは、かつてこんなに効果的に感じたコトはなかった……というくらいにナイスアクセント。ベーコンはそう呼ぶには妙に生々しい味のする、健康的塩味。パティはハンバーグ。ギューギューに捏ねられておらず、肉と肉の間に空気を含んだ、ホワッと柔らかくて温かい食感。塩味が絶妙に効いていて美味!みずみずしいレタ=オニ=トマに、パティ=ベーの塩味が嫌味なく効いて素直な組み立て。そして直感的な美味しさ!マヨ&ケチャ一切不要!オニオンの上品な余韻がたまらない。ついもう一個いきたくなる。BGMは一瞬、地元ヨコハマのクレイジーケンバンドが聴こえたが、アレはジュークボックスだったか、時おり響く玉突きの音以外、あとは終始無音だったように思う。場所はちょっとさみしいが、"僕らがこどもの頃の"オトナな空気に満ちた、好スポット。
※2006年1月14日、記事を「横浜」編より移動させました。
2005.7.3 Y.Mみなとみらい線が開通して観光地化の進む横浜。開けてゆくことと引き換えに多年凝縮されてきた横浜のエッセンスがどんどんと薄まってゆくように感じるハマっ子諸兄もきっと少なくないことだろう。しかし観光の波もMM線とともに元町・中華街止り、市バスしか交通手段のない本牧まではさすがに足を延ばす観光客もいないようで、そうした意味で本牧は、山手の丘陵一線を砦に守られる、ハマっ子にとっての最後のヨコハマかも知れない。みなとみらいを"オモテ"とするなら本牧は奥座敷……いや"奥ハマ"ぐらいに呼んでおこうか。
1945年、終戦直後に米軍に接収されて米軍横浜海浜住宅地区と呼ばれていた。当時のことを調べるうち、こんなページを見つけた。しかも先月の記事である。この記事に限らず、当時の本牧を振り返る記述には必ずと言ってよいほど「フェンス」という言葉が出てくる――フェンス一枚挟んだ"向こう"には映画館、ボウリング場、ショッピングセンター……戦勝国アメリカの別天地のような暮らしがあったのである。敗戦国の国民は強烈に惹かれ、憧れ、近付き、そして吸収していった。返還されたのは82年、「そう遠くない昔」である。跡地は整備されて、現在見るようなマイカルを中心とする美しい街並みになっているが(景観に関して強力な建築協定が結ばれているとのこと)、かつてはフェンスの"外側"だったこの本牧の街一帯にはアメリカの香りが――だいぶ薄まってしまったかも知れないが――それでも引き続いて残っている。みなとヨコハマとはよく言うが、実に37年もの間アメリカの影響をダイレクトに受け続けてきた本牧は、異文化中継地・横浜の中にあっても格別な土地柄のようで、ハマっ子たちの憧憬の念は今なお強い。そんな本牧に接収当時の米軍の味を探してみよう――というのが今回のミッションである。ヤンチャな大人の街・本牧でアメリカンなハンバーガーを――
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接収地内には「Area 1」と呼ばれる場所があったといい(カッチョイー!)、そのかつてのArea 1の辺りに現在その名を戴くカーショップが在る。「アメリカが好き、それもサウザンカリフォルニアが好きなカ−ガイズにはたまらない」ショップは骨の髄までアメリカ大好き、毎年12月にYokohama Hot Rod Custom Showを盛大に開催して去年で14回を数える。MOONEYESは平たく言やぁ、ま、カーパーツの世界的ブランドといったところだろうか。私はソノ世界には全く馴染みがないのだけれど、しかしそんな私でも見覚えある目玉のマークだったので、きっと皆さんも知っているだろう。MOONEYES Area-1はその日本法人の直営ショップということになるのだと思う、きっと。ハマっ子たちのHot Rod Heartを掴んで止まない、そんなカーショップに併設するカフェがこの夜の目的地。
サイトに説明が詳しいので以下引用多用でゆくと「1991年5月……MOON Cafeは50's StyleのハンバーガーレストランとしてArea-1隣にオープンしました。Car Freaksの為のレストランです」「1996年7月……移転を切っ掛けにそれまでの50's Styleレストランから60's StyleのCoffee ShopにGrow Up」ということで現在在るのは60's スタイルのカーフィーショップ。「天に向けて斜めに張り出す大きなウインドー」「店内外に積み上げた石壁」、テーブルや天井の白、壁や扉のメタリック、そして椅子のムーンイエロー(あえてこう呼ぼう)が、昨日出来たばかりではないか――と見紛うくらいにピッカピカにキレイな、清潔感と透明感に溢れる明るいお店。「大きくU字型にラウンドした2つのボックスシート」のうちの1つを、地元の名士Yo氏と占める。BGM――基本はレゲエ、チョロッとハワイアン。ポカポカと陽気なムード。
ディーン・ムーン・バーガー\1,680。「ムーンアイズの創設者にちなんでつけられた、当店イチ押しのオリジナルハンバーガーです。112.5gのパティをダブルで挟んだ、heavy級」いつになくダブルなど頼んでしまう。EXTRAチーズ\158。付け合せはコールスローにフレンチフライ。まずバンズに目が行った。久々にクシャッと潰れた感じのフカフカバンズ。フカフカであると同時に生地にはバネがあり、丈夫である。特に下バンは薄身であるのにダブルパティの加重と野菜の水分に強靭に耐え抜いてビクともしない(今見ると上より直径大きいか)。上バンの裏には網焼きの跡。中身は生オニ、トマ、ピク、レタスたっぷり(以上、バーガーの"外"に)、よく溶けたチェダチーにパティ×2。パティは身の締まり具合といいコゲの香ばしさといい、大味過ぎず、小さくまとまり過ぎず、滋味とバランスを兼ね備えたナイスアメリカン。ダブルにしたことにより味に重厚さが増している。上バン表面の白ゴマの焦げ味が肉の味をさらに引き立てる。チェダーチーズも濃い目によく効いている。軽く胡椒を振った程度のプレーンな味付けなので、適宜ケチャップなどかけてみるとコレまたよく合う。まさしくコノ店の空気にピッタリなバーガー。ガバーッと掴んでガブーッとカブり付き、生ビールをグイーッと開ければ気分爽快!冬の寒さも一瞬にして忘れること請け合い。
寒さと言えば夜も11時を回ろうかというこの時間、店のオモテに自慢のバイクを伴った人々が集まって来ては、何やら静かに会話を楽しんでいる。バイク愛好家は寒さは平気らしいが(確かにそんな気もする)、それにしたって何もこの冬場に外で立ち話など……と思うのは、ま、余計なお世話だろう。みなさん30代半ばくらいの良識あるオトナな方々ばかりなので、近隣への配慮を欠かさず、決して大きな物音を立てることなく、実に静謐なる会話の様子で、あたかもアゴラで議論する古代ギリシャ人の姿を見ているかのような賢人ぶりであった。沈黙は金――やはり本牧はオトナな街
2006.1.14 Y.M横浜・本牧を拠点に、60年代よりPOWER HOUSE('68〜70)、POWER HOUSE BLUES BAND('71〜)、CHIBO & The Bayside Street Band('80〜) 、2004年からはTHE MOJOS'を率い、実に40年にも亘り活動を続ける本牧のロッカー/ブルース・ミュージシャン、CHIBO氏の店。本牧ロック化計画を目論む氏の店の、入口に輝く赤いネオン管の下をくぐると、入ってすぐ左手に黒い扉がある――この扉の向こうは「BOOGIE STUDIO」というリハーサルスタジオになっており――つまり店とスタジオは扉一枚でつながっているのだが――ココを"ホーム"に目下旭日の勢いで音速稼動する横浜本牧が生んだ東洋一のサウンドマシーンと言えば――そう、クレイジーケンバンドである。
横山剣にとってCHIBOは「師匠とも言うべき人」であるという(一度読んでミテ)。全国的な人気を博す以前からCKBに相当入れ込んでいた友人が、私の周りには(少なくとも)二人いた。ブレイク前のローカルバンドの名を、友人は懸命に教えてくれたのだが、しかし私は聴く耳なく……誰ソレ?
ところがある年の12月、"例の曲"の大ヒットを足がかりにバンドは一躍メジャーに踊り出、以後その地位を揺るぎないものにしていった。それこそ"アッ"という間の出来事である。元々が相当な実力者だったのだから、当然と言えば当然の結果だろうが。さて事ココに及んで私はと言えば……今さらながらに長者町のライヴを間近で観られたら……などと思ったりしているのだが……ソレって甘チャン?
そんなワケでCKBのファンにとって、この店およびこのスタジオはある種「聖地」のような、ないしは合言葉のような存在であっておかしくないのだが、しかしソレ目当てのお客さんの数というのは全体比で見ればさほどでもないらしい。外人サンは多い。本牧通りを挟んですぐそこが接収地だったのだが、オープンから18年or20年弱……という話なので、ソノ時代にはまだコノ店は無かったろう。そのオープン来の歴史が滲み込む黄ばんだ壁、ヒョウ柄のくたびれたソファ。一見汚〜く思えるも案外と居心地が好い。カウンターを中心にした狭い店内は床は白黒チェッカーズ模様、壁の下半分はお決まりのように薄緑に塗られ、天井四隅にはサイコロ状のスピーカーAURATONE 5Cが配されて、60's辺のロックンロールを鳴らしている。
チーズバーガー\700、ブレンドコーヒー\400。上バンをはずし、トマトとレタスを外にやったオープンフェイス。スウィートレリがシュレオニの上にちょんと乗り、下はケチャ、マス、どこかにマヨ、チー、パティ、下バン。クシュッとつぶれたバンズ。皮が薄くライトな感覚。密集する白ゴマが軽く焼けて、香ばしいアクセント。パリパリのレタスと直径の大きな甘〜いトマトは実に新鮮。良いものを使っている。細長く切ったシュレッドオニオンは中華で言うなら白ネギ風、シャキとした歯応えでこれまた良いアクセント。これら野菜に比べるとパティはやや少量だが、質感が良く、甘目の味でバーガー全体を下支えしている。ウェンディーズ系、マヨ&ケチャで味のしっかり整った甘めバーガー。バンズも心地好く甘め。迫力や質量を求めるとやや物足りないかも知れないが、でもほんわり甘く、実にライトで、口にするとフワーッとした食感に満たされる。付け合せはポテチ――舶来モンだったネ。
そんな次第で特にCKBなど関係ナシに、何だか良さそうな店があるナ……とフラと入ってみて、何だかとってもイイ時間が過ごせましたっ!――って利用の仕方が好ましいお店。何てぇか……革ジャンにサングラス、上から下まで黒ツヤ消しのコワモテロッカーどもは、見た目イカツクて近寄り難い感じがするけど、話してみたら優しくて、ちょっとシャイなところのある、とってもイイ人たちでした……って感じのお店かな?本牧の店は概して態度に余裕のある、温かいサービスのところが多いように思う。何だかリラックスした気分になれるRETRO FUTURE GARAGE TOWN
2006.1.30 Y.M23区以外の東京のことをよく東京「都下」と呼ぶ。この理屈でゆくと八丈島や沖ノ鳥島も皆「都下」になるわけだが、以下の説明における「都下」とは東京西部・多摩地域の市町村のこと。我が周辺でリサーチしてみたところ、都下の地理や自治体の位置関係に明るい人はほぼ居らず、さらに横田基地が何処にあるのか、正しくその所在地を把握出来ている人はまるで居なかった。実は私もその一人……
調べてみた。さすが現役の基地だけあり、横田基地については資料も多い。とりわけ詳しいサイト(多謝)から得た情報をまとめると、
◆ | 1940年、旧日本陸軍立川飛行場の付属飛行場として開設され、多摩飛行場と呼ばれた。当時地元では福生飛行場と呼ばれていた。 |
◆ | 1945年9月4日、米軍占領。横田という名称は当時飛行場の東(現武蔵村山市)にあった小さな村の名前に因んで付けられた。 |
◆ | 福生・立川・昭島・武蔵村山・羽村の5市と瑞穂町の1町にまたがる。 本州最大の米空軍基地(つまり沖縄が国内最大)。3,353mの滑走路1本を有す。 |
◆ | 在日米軍司令部、第5空軍司令部、第374空輸団司令部の3司令部が置かれる極東における主要基地。極東地域全体の輸送中継ハブ基地(兵站基地)としての機能を有している。戦闘部隊はいない(……と聞いて攻め込まないよーに)。 |
◆ | 基地総面積:約713万6,413平方メートル ……狛江市より大きい(6,390,000u)。但し狛江は都内の市では最も小さく、全国でも蕨市、鳩ヶ谷市(ともに埼玉県)に次ぐ3番目に小さい市である。とは言え基地をすべて宅地化すれば、ざっと7万人は住める計算になるので(狛江市の人口から算出)、全く軽視出来ない面積である。ところがその7万の住宅地に居住する現在の人口は……↓ |
◆ | 横田基地の人口:約11,000人 ――悠々! |
というワケで横田基地第2ゲート前にある"門前町"福生。戦後の歴史を米軍基地とともに今なお歩むコノ街は、基地に面した国道16号沿いを中心に、輸入雑貨屋、ミリタリールックなどの古着屋、古家具屋(あと自転車屋が多かった)、そしてアメリカンなダイナー/レストランなどがチョイチョイと連なって、かなりコアな異文化体験をすることが出来る。その特有な空気に惹かれ集まったアーティストも多い。忌野清志郎もその一人であることは恥ずかしながら今回初めて知ったが、しかし兎にも角にも福生と言えば大滝詠一。作品ちょとしか聴いたことないけど、でも尊敬する大滝詠一。福生の何処かにスタジオ持ってる大滝詠一……と想像するだけでウズウズ・ワクワク行ってみたくなる福生……となりゃあ行動有るのみ!さぁ〜、福生行きの切符買って!
§ § §
とは言え、行くは遥か福生――なので今回は"都下"八王子在住の友人GIのクルマで現地入り。ネットを検索していると、バイク乗りの集会場ないしは中継地的存在として謳われることの多い店。確かにこの日もハーレーで乗り付けた不良中年グループが和気藹々、楽しくお茶した後、ドゥ、ドゥ、ドゥ、ドゥ……と店内にも響くエンジン音(と言うか地響き)を残してヘイヘイ去って行く姿が見受けられた。16号を挟み、目の前が横田基地。ファサードのほぼ全面に及ぶ、機能的なサッシの折れ戸がまず目に入る。店外に積み上げた石壁、グレイに塗った内壁、床は黒と赤茶のチェック(CLUB HARIEみたいな色使い)。少し黄ばんだ感じの天井からは円筒形・3灯のモダンなペンダントが下がり、アンティークな家電・玩具・無線機などの類が壁に飾られている。わりと整然とテーブルが配されたモダンなセンスのダイナー。バイク乗りの……というところからもう少し荒くたいものを思っていたのだが、イメージするほどワルでワイルドな造りではない。天井に埋まるBOZEが意外なほどの良い音でブライアン・セッツァー・オーケストラをジンジン鳴らしまくっていて、もぉ〜ゴッキゲーン!
経営はアノ紅虎餃子房の際(キワ)コーポレーション。福生の街には紅虎こそ無いけれど、DEMODE DINERはじめグループ店が多数点在。'99年に目黒に移転するまでの7年間、本社はココ福生にあったというから、福生とはきっと浅からぬ関係にあるのだろうが、沿革ではそこまでのことは触れられていない(一体どういう関係が……)。そんな有力外食企業の経営ゆえ、DEMODEと名の付く店は渋谷・札幌・京都・深川・相模原……不意を突くように全国各地に在る。'98年オープンの福生店こそきっとその発祥だろう。バーガー8種。B.L.Tプラスチーズのチーズバーガー、ダブル\1,050を。お供はアイスマンゴーティー\530。
パティは注文が入るたび捏ねているらしい。待ってましたとばかりキッチンから音が聞こえてくる。やがて運ばれて来たのは……オヒョ〜!紛れもなく当企画最高峰のその上背に、思わず拍手手拍子……。これでビック!ビック!ダイナーのタワーハンバーガー\2,950(3〜4人前)ともなれば一体どうなることやら……。白ゴマの少量乗ったフカ系バンズのてっぺんには串が2本刺さっており、MOS's-Cの再来。単に見た目だけのことかと思っていたが、そうではなく、これだけ高く積まれたバーガー、2本使わないと到底安定しないのである。もしコノ迫力に臆することなく、果敢にカブり付こうと思うなら、この2本の串を決して抜いてはいけない。一度串の抜かれたバーガーは、どう工夫したって串抜きには再び一列縦隊に復することはないのである。パックは供されないので、串を刺したまま素手でゆくか、道具を使うか、二択になる。しかし串を刺したまま食べたとて、そのうち挟んである順番などどうでもよくなるくらいグヂャグヂャになってしまうので、最終局面における道具による収拾は不可避。
中身は濃厚なるハンバーグソー1、チェダーチー1、ベーコン1×2枚、分厚いトマ1、パティ1、またハンバーグソー2、チー2、ベー2×2枚、パティ2、トマ2、レタス1枚、そして下バン。熟したトマトはホットになって乙な美味しさ。ベーコンも至極適当な食感と塩味。レタスは少量で影が薄い。そしてパティ――ベースの真ん前という立地から、ワイルドで大味なアメリカンテイストを想像していたら左にあらず、これは良質なハンバーグである。ぎっしりギュッと身の詰まった食感で、ふわふわっとしたモノとはまた違う重量級の美味しさ。刻んだオニオンの入った濃い目のソースは、あたかも台風の目が如く食材一同をご覧のとおりのドロドロ大洪水の渦中に巻き込む。このバーガー、バーガーと言うよりハンバーグを食べている感じ。純粋にハンバーグとして美味しいので、シューチレス(無羞恥)にもカッと大口開いてドロドロに手を汚してまでハンバーガーとして食べる必然も無いと思った。自然体で楽しみたい。付け合せはピク×2、ドレッシングのかかったレタス、フレンチフライ。
さて……友人と話し込むうち外はすっかり暮れて、夕陽に映えるYOKOTA MIDDLE SCOOLの校舎の後ろから、白い月が昇っていた。おおっ……これぞまさしくナイアガラムーン!
2006.2.21 Y.M別日、今度は鉄道で行ってみた。JR八高線の東福生で降りて、福生の街を気の済むまでWalkin' Around 、日も暮れかけた頃ようやく目的地に向かい始めた。コノ店は間違いなく福生文化圏の店ではあるのだが、しかし所在地は福生市にはない。国道16号をひたすら北に進路を取り……ま、歩いて行くトコじゃないネ。なにせ道を訊いたDEMODE DINER付近の作業服屋の主から「かなりあるよ」「どのくらい?」の後、返事が返って来なかったくらいなので。すっかり暗くなった国道をTail Lamp 数えながらヒタヒタと歩行――なかなか着かない。やがて[羽村市]の標識が現われ、程なく[瑞穂町]が現われる――が、まだ着かない。そろそろ気力も萎えてくる……が、ここで歩みを止めるわけには行かない――退くも進むもただ基地有るのみ。なので目標に向かってただ前進するのみ――Keep on strut !
と、やっと現われたランドマーク――夜闇にほの白く浮かび上がるボウリングのピンは、地元の人の説明によく登場するRound 1(since 1980)。その2軒隣に……あったー!GS風構えの建物。中古アメ車専門店Paradise Road の2F。隣には有限会社徳田発動機なる修理工場。大モトはどっちか判らぬが(多分徳田発動機)、これら皆兄弟姉妹。帰ってから気付いたのだけど、ふ〜ん……電飾で飾られた正面の階段――コレ比較的最近取り付けられたモノですな?コノ階段が写っていない写真の方が多い。
扉を開けると、正方形に近い広ーい店内に観客は僕だけ――。黒く塗って余計に高さを強調した天井からダウンライトが強い光を落としている。床は白黒チェッカー……ではなく、建物の外壁と同じ、白地にホットピンクの水玉。塩ビ張りの派手派手赤白ソファの上の音の無いスクリーンは『カクテル』を映していた。ピンクのネオンに照り輝くカウンター、その隣のキッチンはこの広い店の中にさらに設えられたブースの様な囲いの中に位置。カウンターと反対の壁にはSONORのドラムセット、電子オルガンから年代モノの自動演奏ピアノからアンプにモニターも一式揃い、ギター/ベースも数本ある様なので、今すぐにでもバンド演奏が始められる状態。後はもぉ歌うベティちゃん人形にスカート押さえるマリリン・モンロー、もちろんジュークボックスに我が心のピンボール、実物大のクルマのオブジェにアンティーク玩具が満載!そんな50'sテイストの中、アース(EW&F)の「宇宙のファンタジー」なんか流れた日にゃあ、もぉ〜!その後も続くディスコテックのオンパレードにふと天井を見上げれば、そこにはミラーボールが空調の風にゆらゆらと揺れてぶら下がっている。ひょっとするとコノ店、テーブルを端に寄せればイイ感じのダンスフロアになるんじゃないかしら?トドメはブロンディの「ハート・オブ・グラス」――飄々として人を食ったようなコノ曲に最高点!
さてハンバーガー「50S Cafeには欠かせないメニュー、当店自慢のBeef100% のホームメイドHamburger!!」シングル\850にトッピングのチーズ\100。バンズは表面ケシの実、ツヤがあってあんぱん状。強い甘味。中はよく粘る白いチー、パティ、トマ、シュレオニ、シュレレタ、マスマヨ?、下バン。バンズの焼き方が上手く、薄いオモテ皮がシャリシャリと砕ける。下バンもしっかりとしていて安定感抜群。肉厚のパティはコリコリ・粒々とした適度な大味加減、なかなかの食感だ。チーズの味は微か、シュレオニは辛味弱く存在希薄。このまま食べるとマヨネーズ味のパティになってしまうので(私はあまり好きでない――豚ならともかく、牛肉にマヨネーズ塗ったくって食べる人居ないでしょ?)、適宜ケチャップを。どうも挟まる全ての食材がバンズの甘味に負けてしまっているような気がする。せっかく肉質は隆々として素晴らしいので、ココはさらにもうひとつ隆々としたBBQソースなり、ブラックペッパーなりでも加えたら、細工はさらに流々!一層ごっつく仕上がって良いと思うのだけれど。付け合せはフレンチフライ、ピクルスに、本気で辛〜いハラペーニョ。
コノ辺り、在るのはただ広い飛行場ばかり。基地内の一切の建物が途絶えて、窓外に滑走路を眺め見ることができる。とは言え夜は、ただただ黒々とした巨大な"闇"が前方に横たわっているだけ。誘導灯の青い光が、其処が滑走路であることを辛うじて示している。
さて、行き来た道をまた戻るのも芸が無いと思い、復路は八高線の次の駅、箱根ヶ崎目指して再び歩きだした。ところがこれがどーにもこうにも……なかなか着かない。寒風荒ぶ中、行けど歩けどいつまでも飛行場のヨコ。まったく着かない。まるで着かない。あぁ、いつまで歩けば良いのやら……。でもまぁイイヤ。ゆっくり行きましょ、明日も休み……
近年、戦艦大和の母港として脚光を浴びている。東京では「クレ」と前にアクセントを置くが、後ろが上がる「クレ」が正調。呉の街はなにしろ造りが大きくて、地図で見るのと歩くのとでは大違い。もっと手のひらサイズのコンパクトな街を想像していたら、区画区画のいちいちが大きく、歩道も驚くほど広い。大通りが緑濃い夏の山々に向かって道幅を狭めてゆく姿はダイナミックですらある。高い山、そして穏やかな海――典型的な瀬戸内の風景だ。
通りからさらに細い通路を入った奥に在る、スナックのような立地の洋食屋さん。予備知識無く行ったら気付きさえしないかも知れない。ところが昨年'05年2月、この佐世保バーガーを復活させてからというもの、予約完売・売切御免の日々が続いている。
このバーガーの起こりはおよそこうである――太平洋戦争終結後、軍港であった呉にも進駐軍がやって来た。片岡氏は呉市内にある(現在の店よりおよそ100メートル内陸寄りと言っていた)、日系2世のオーナーが経営する進駐軍相手の食堂で働いていた。そこで米兵からのリクエストを聞くうち出来たのが、当時の名で言うスペシャルバーガー――1953年のこと。お値段\150。普通のバーガー\80。ビーフステーキが\300だったというから、安いメニューではない。まして日本人にはとても手の出ない値段だった。進駐軍と関わりを持った一部の人々の間でこそ評判になりながら、結局'71年のマクドナルド上陸までそれ以上にハンバーガーが広まらなかった理由には、そんなことも一因しているのではないか。そう考えると、そこにあらためて佐世保の凄さが見えてくる。佐世保バーガーの意義は「日本初の」とか「バーガー伝来の地」とか、そういう記念碑的価値にあるのでなくて、米軍から教わったその作り方をどんな規模であれ形であれ、長年かけて自分たちのものとし、保っていったという点にあると私は思っている。まして当時、牛肉なんて庶民にはとてもとても高かったであろう時代を背景としながらも、しかし佐世保の街からハンバーガーが消えて無くなることはなかった。しかも独自の工夫を凝らし、自分たちの味を作り出していったのである。その点を見れば佐世保は、文化の受け手として、横須賀・横浜などよりはるかに優秀だったと言えるだろう。
その後――横須賀と佐世保には今なお米軍が駐留を続けているが、呉と舞鶴からは撤退する。進駐軍の撤退とともに、その恩恵を蒙っていた飲食店や娯楽業もその役割を終えた。米兵とそのファミリーを相手としていたその食堂がいつ店を仕舞い、日系2世のオーナーがいつ日本を離れたか、正確なところは聞かなかったが、片岡氏自身もこの時期、他店(確か広島市内)に移っており、かくてこのスペシャルバーガーは時代の流れの中に一時埋没することとなる。
次に片岡氏は東京オリンピック前夜、最も槌音盛んなりし頃の東京は表参道に店を構えた。住んでいたのは目黒の東山とも池尻とも。当時の表参道は裕次郎やら健さんやら、銀幕の大スター達がこぞって住んだり店を出したりして、それはそれは華やかな街だったという。ちなみにこの時はバーガーはやっていない。で、これまたどういう経緯か氏は再び呉に戻り、そして現在の場所に店を開いたのが'68年。以来38年キッチンかたおかは続いている。
スペシャルバーガーの復活を呼んだのはお嬢さんの旅行。佐世保で食べたハンバーガーが父君のかつて作ったソレと似ていたという報告に端を発し、アノ頃は……と回顧の時が家族の間でひとしきり流れて、「じゃあ、もう一度作ってみたら?」と話が徐々に盛り上がっていった(のだろう)。50年前の食べ物を再現するには幸運の女神のアシストも必要だった。まず肉は当時仕入れていた福留さんが今なお健在でラッキー!問題はバンズ……こちらは当時メロンパンというパン屋に頼んでいた。半世紀前、日系2世のオーナーと片岡氏、そしてメロンパンの店主とで意見を交わして作り上げたバンズ――本当なら注文の絶えた時点で作られなくなるべきものが、しかし幸運なことにメロンパンの店主がこの労作を惜しみ、コロッケを挟んで売り続けていたのである。コロッケパンは2代目店主にも引き継がれ、2代目は1日10個限定でバンズの注文に応じた(現在20個に増産)。こうしてスペシャルバーガーは復活し、ブームに乗る形で佐世保バーガーと命名された。なぜ「呉バーガー」としなかったかについて、片岡氏よりいくつか説明をいただいたが、しかし私は後継者の不在がその一因でないかとも見ている。キッチンかたおかには継ぎ手が居ないのである。今ここで呉バーガーを興しても、いたずらに名のみ響くばかりで実体はじきに絶えてしまうだろうと。しかし今このタイミングであればこそ、この味を受け継ぐ人はきっと居るような気がする。
店は席数12ほどの窓無く、天井高い老食堂。随所がすっかり古びて、お世辞にもキレイとは呼び難い。ゴルフ中継の響く中、具材をひとつひとつ並べながら時間をかけて丁寧に作ってゆく。佐世保バーガー\800。白いバンズは表面何もナシ、裏バター。レタ、トマ、シュレッドオニ、ケチャ、パティ、またケチャ、エッグ、レタ、下バン。パティはハンバーグステーキで使っているものと同寸。50年前のパティは所謂ハンバーグだったが、今回の復刻版ではつなぎは使っていない。でも少しハンバーグ寄りな家庭的な味わい。パティの下にケチャップ、上からまたケチャップ……当時どうも米兵がケチャップを瓶ごと要求したらしい。傍で見ていても「ケチャップ食べてんだか何食べてんだか……」という状態だったそうで、ソレを正しく受け継いでのこのケチャップの海と言う次第。圧倒的ケチャップ味主体のバーガーなので、佐世保のものと同種とは言い難いが、コレはコレ、片岡氏個人の貴重な体験を経て出来上がったオリジナルなバーガーと呼ぶ方がずっと相応しい。かなりなヴォリュームがある。私がこれまで見てきた進駐軍直伝のバーガー群からすれば、片岡氏のバーガーはずいぶんとサイズが大きい(ナゼ?)。ただ惜しむらくは、そのまま出せば上背もあって相当見栄えのするバーガーなのに「食べにくく思われて引かれては……」と岡山と同種の心配をするあまり、コレをアルミホイルに包んだ上、ペシャンコに潰して出してきて、客は焼き芋よろしくホイルを剥きながらいただく……う〜ん、折角のビジュアルを丸っきり隠してしまうとは勿体無い!まずドーンと見た目で惹いて、そして味と量で唸らせる……食べ易さなんて後から何とでもなる話で、むしろ当時米兵がどうやって食べていたか、それを伝授していただいた方が話題性もあって良いように思いますが……。
呉市出身の有名人を見ていたら、なんと友人の父親の名が出てきた。そもそも宇宙工学の分野において著名な方なのだけれど、とは言え今やなんと!!大和ミュージアムの名誉館長も務めているというから二度びっくり!縁もゆかりも微塵も無い街かと思いきや、表参道の話は出るわ、友人の父の名は飛び出すわで、お釈迦様の手のひらの上をくるくる回っているとはこんな状態を言うのだろうかと、何やら雲に乗った気分である。「今日はバンズに余分があるから」と、撮影用にもう1個作ってもらい、お土産にしてこのお釈迦様の手のひらを後にした。お土産はビールとともにこの日の夜、尾道でいただいたが、奥さんの言うとおり、冷めても美味しいバーガーだった。
2006.8.16 Y.M